概説
アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン地区のイタリア系の家系に誕生する。
5歳の時、カトリック修道女からピアノを学び始める。
13歳の時、幼馴染で音楽プロデューサーのRichie Zitoととバンド活動を行い、ヴォーカルとベースを担当。
16歳の時、NYの大手レコード会社・Atlantic Recordsとバンド契約を結ぶ。ヒットに恵まれなかったものの、レコード会社で郵便仕分けのアルバイトを始めた際、有名ミュージシャン達の録音風景を目にしたことで、音楽制作に興味を抱く。
その後、キーボーディストとして、多くのミュージシャンのサポートに従事。また、オーディション番組「Star Search」の音楽スタッフとして9年間携わる。
1982年、Zitoとプロデュースした歌手・John O'banionが、東京音楽祭に招待されたことを機に来日。日本の仕事を増やしたいと考え、外国人アーティストのプロモーターとして著名な永島達司に手配を依頼する。
1983年、映画『里見八犬伝』のサウンドトラックを担当。O'banionが歌唱する主題歌の作詞・作曲も務める。
1983年、矢沢永吉のバックバンドにキーボーディストとして参加する。
1984年、Zitoと共に、Teri DeSarioの2ndシングル「Overnight Success」を作詞・作曲。ソニーのカセットテープのCMソングとして大ヒットする。
1985年、ホンダのスクーターのCMソング「DJ in My Life」を制作。同年にシブがき隊がカバーシングルをリリースしたことを機に、当時のジャニーズ事務所社長・ジャニー喜多川と知り合う。以後、少年隊をはじめ、STARTO ENTERTAINMENT所属グループ楽曲を多数手掛けるようになる。
現在は、月光恵亮のプロデュースや、STARTO ENTERTAINMENT・ハロー!プロジェクトへの楽曲提供等、日本での活動に重きを置いている。
avexやソニーレコードのアドバイザーの他、東京スクールオブミュージック専門学校渋谷の講師も務める。
音楽プロデューサー・STEVEN LEEのJ-POP参入を手助けしており、彼の作品のSong Co-ordinationを手掛けることが多い。
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提供作品
- 「ROMANCE」
- 「Water Drop」[★]
タッキー&翼
- 「epilogue」
KAT-TUN
- 「MOON」[★]
Hey! Say! JUMP
- 「Score」[★]
A.B.C-Z
- 「Twinkle Twinkle A.B.C-Z」[1]
Co-ordination作品
KAT-TUN
- 「SADISTIC LOVE」
- 「NEIRO」
- 「MOON」
Hey! Say! JUMP
- 「Thank You~僕たちから君へ~」
- 「「ありがとう」~世界のどこにいても~」
Kis-My-Ft2
- 「Black & White」